不条理さの加速

Covid-19の自粛生活が始まって3ヶ月目に入った。2月の休校要請の頃と比べ、影響を受ける人と受けない人の差が広がってきたようにおもう。これまでの災害などでも見られた現象で、なんとも気が重い。

テレワークに対応できたり雇用調整助成金を受けられる企業に勤める人と、対面でのやり取りがメインである業種とでは、経済的、精神的損失にものすごい差がある。

テイクアウトや通販に切り替え、なんとか延命しているお店もあり、ファンであれば支えたいと思うのが人情だ。わたしにとって、なくなってしまうと困るのは映画館と書店。特に書店は利益率の薄さや消費増税などで経営体力が弱っていたから、本屋さんの行く末をはらはらしながら見守っている。

現状になんとか抗って通販などに対応するお店が増え、わたしも遠方の本屋さんから初めて商品を買うこともできた。飲食店に流れていた高級食材が余り、お取り寄せする人もいるようだ。コロナが呼び水となりこういう恩恵が受けられるというのは皮肉なことだ。

しかしこれも物流あってのこと。小売店と消費者にとって歓迎すべきことでも、それが運送業者に過剰労働を強いているのではないかという不安がある。

テレビやネットで美味しいものを手軽に頼めると知って、いつもなら買わないはずのものを買ってしまう。それこそ不要不急であるにもかかわらず。

そのことが流通現場の疲弊を招くことにつながらないだろうか。もちろん注文してもらうことで助かる人がいるのも事実なので、なおさら事の複雑さに考え込んでしまう。

 

もうひとつ、わたしがもやっとしているのはテレビ番組だ。いろんな番組の収録現場が止まり始めたときには、このまま番組表がすかすかになってしまうのではと思った。だが、そうはならなかった。ワイドショーや報道番組は、別室に居るコメンテーターとスタジオを遠隔で結ぶというスタイルを始めた。今ではあたかもスタジオに座っているかのような背景を使うという演出までされ始めた。

こういう遠隔スタイルを使っている番組は正直いって、わたしにとってどうでもいい番組ばかりだ。(むしろ元々嫌いな新自由主義的論説陣がどういうわけだか重用され始め、なおさらげんなりするのだが、まあそれは置いておく)予算も安く済みそうなので、今後、増産されそうな懸念もある。

反対に接触なしでは成り立たない映画やドラマは再開の目途が立たない。(リモートドラマというのもあったようだが、あれは特殊なものだ)

なんとも悲しい事態だ。ミシェル・ウェルベックが、Covid-19で世界が変わるのではなく、これまでの流れが加速しただけ、と語っていて、つくづくそのとおりだなとおもう。自分にとって必要なもの、好きなものが次々と壊され、どうでもいいものが生き残る。ここ数年は、その不条理さを身に沁みて感じてきたが、今はその残酷さを見せつけられているような気がしてならない。