猫ということばを超えた存在―『猫には負ける』『未明の闘争』
5月14日
『猫には負ける』は詩人の佐々木幹郎氏が半野良の三毛猫ミーと付かず離れず暮らす日々のあれこれを綴ったエッセイだ。ミーは野良猫の頃と同様に外での遊びを楽しみ、気が向くと佐々木さんの家にやってきて餌をもらったり部屋で眠ったりする。猫の野生をある程度損なわず、関係構築していることに驚く。完全室内飼いの猫ではこうはいかない。
佐々木さんは、夏に山小屋で過ごすときにミーちゃんを連れて行かない。心配ではあるが、猫の生存能力を信じて東京の庭で留守番させる。これは、野生を失った家猫では無理だ。
てんでんばらばらに幸福である状態
形の定まらない関係性をお互いが無理せず維持する。もしかしたら人間同士もこういう繋がりを持てたら、きっと楽だろう。自分より小さいものに対して、やってしまいがちなのが、過剰に保護しようとしたり、その反対に自分の従属物のように思ってしまうことだ。子どもに対してそのように接してしまう親は多い。
だが猫は、人間にそれを許さない。近くにいながらも束縛しない。相手のことをしっかり観察し見守るが、求められなければ手は出さない。こういう距離感を知るのに猫はちょうどいいのではないか。
「サンデー毎日」2020年4月26日号(4月14日発売)に、佐々木幹郎『猫には負ける』(亜紀書房)の著者インタビューが。猫の話をしていると、わたしはつい笑いすぎてしまうのです。 pic.twitter.com/pnSAS7qYIe
— 佐々木幹郎 (@alicejamjp) 2020年4月15日
猫嫌い?な荻原朔太郎と猫好きな室生犀星
猫好きの佐々木さんから見ると、荻原朔太郎は猫の描き方がおどろおどろしく、あまり猫が好きではないと感じるそうだ。対して室生犀星は犬も猫も好きだという。
確かに、小説での猫の描かれ方で作者の猫にどのように接しているかわかるときがある。ある作品で妻に浮気を追求されそうになった主人公が、「警戒心で耳をたたんだ猫みたいな表情になっている」と語る場面があった。
「たたむ」というと、犬が萎縮したときに耳を垂れる様子が浮かんでしまうのではないかなあとおもう。ネコメンタリーにも出演し、猫のことを考えるのは小説を書くことと同じだと言う保坂和志は、『未明の闘争』でこう書いている。
「見せるだけ見せてガーガー寝ちゃったのよ。」紗織は喉の奥のところをふるわせて「ガーガー。」と私のいびきを再現すると、チャーちゃんが不穏なことでも起きたように耳をうしろに引っぱった。
「耳をうしろに」引っぱるというのはゴツゴツした表現で、「たたんだ」の方が文章としてはすっきりしている。けれど、実際に猫の行動を見ている人にとって、この「耳をうしろに引っぱった」というのは、どんぴしゃりの表現なのだ。これを読んで以来、うちの猫が似たような動作をするたび、このフレーズが浮かぶようになった。そして、保坂氏の観察眼に唸るのである。