柴田元幸先生の朗読会
5月22日
手紙社さん主催のオンラインイベント『柴田元幸「いま、これ訳してます」』に参加した。翻訳家の柴田先生が訳し終わったばかりの作品を朗読で披露。質問タイム、サイン会も織り込んだ企画。
オンラインサイン会は希望者には事前にエントリの上、代金を支払ってもらい、当日、配分された時間枠内で画面の向こうの柴田先生がサインを書きながら購入者と双方向で対話するというものだった。(わたしは参加しなかった)
1本目の朗読は、MONKEY10月号テーマ「幽霊話」に掲載予定のシャーリィ・ジャクスン「ホーム」だった。読んだことがない作品だったので最後は悲劇的に終わるのだろうかとハラハラしたら、違った!この短編は創元推理文庫のアンソロジーにも収録されているようだ。
先生によると、実はシャーリィ・ジャクスンの別の短編「デーモン・ラバー(The Daemon Lover)」の方を掲載する可能性もあるそうだ。この短編は同じタイトルのスコットランドバラッドがベースになっており、アイルランド作家エリザベス・ボウエンにも同様の作品があるとのことで、その両方を同時収録するかもとのことだった。こちらも大変興味深い。先生はどちらを選択されるか、楽しみに待ちたい。
2本目は、6月発売のMONKEY「猿もうたえば」で掲載されているアレン・ギンズバーグの「グレイハウンドの荷物室で」。物語の朗読もいいが、詩の朗読はやはりいい。柴田先生の朗読に惹き込まれるのは、声の良さに加え、自分で読みながら言葉を選択されているのでリズムが心地よく、情景がつぶさに浮かんでくるところ。
最後は、スティーブン・ミルハウザーの「ホームラン」。朗読会では定番ネタらしい。今回はオンライン開催のため、文字通り全世界から参加者が集っていた。そういう初参加者に向けて披露された。
柴田先生は近年、精力的にイベントや朗読会を開催されている。これまでは、遠方で諦めざるをえない場合もあり、1年に2回程度しか参加できなかった。オンラインだと格段に参加機会は増える。しかしその反面、あの朗々とした生の声の迫力はやはり現場でないと伝わらない。このあたりは、どのライブイベントにも言えることなのではないだろうか。
関西フォーク
5月16日
毎日放送ラジオ「石田英司のプカプカ気分」は元MBS報道部の石田氏が気になるニュースの解説とともに、70年代フォークを中心とする懐かしい音楽を流す番組だ。主に仕事をしながら、Radioのタイムフリーで聞いている。
5月15日の回で流れた、西尾志真子さんという方の「いまはこんなに元気でも」という曲がとてもよかった。透明な声に乗せて歌われる刹那的な歌詞。音源がないか検索してみたが、2006年に発売された『関西フォークの歴史』というオムニバスアルバムだけが見つかった。しかしそれも廃盤になっている。
歌詞の一部を書き留めた。
いまはこんなに元気でも
やがて疲れてママは死ぬでしょう
おまえに教えられなかったことばと
おまえにあげられなかった時間を
にぎりしめながら
いまはこんなに幸せでも
やがて疲れてママは死ぬでしょう
おまえに持たされなかった平和と
おまえに残されなかった心を
にぎりしめながら
作曲者である中川五郎さんのバージョンは以下で配信されている。
https://musicstore.auone.jp/s/song/S1002241340?ds=1002940284&affiliate=2504210001
こちらの歌詞は「ママ」が「パパ」になっていた。
なぜだか、「ママ」の方が切なく感じるし、どことなく怖い。曲調も中川さんの方が少しゆったりテンポで丸みのある歌声であるのに対して、西尾さんの方はストレートで緊迫感がある。あの時代の切実さだろうか。
酔の助閉店に思う。
5月15日
野木亜紀子さんのtweetで酔の助神保町店が閉店したのを知った。40年間続いた懐かしい佇まいのお店が消える。ドラマの風景としてたくさんの人の目に焼き付いている。まさにストーリーが宿る場所。
仮に金銭的に持ちこたえ、感染対策をしてお店を空けられたとしても、あの独特のごちゃごちゃ感が味だから、密です!感覚空けて!というわけにも行かない。こういうお店は多いだろうな。コロナ収束後は本当に街の景色が変わりそうだ。
これは完全に人災なのではないか。老舗の一等地を外資が狙っているという噂も聞く。過去に幾度もあったこういう危機を乗り越え、どうにか生き残ったお店たちも、ここで途絶えてしまうのか。
多くの人がすでに予感しているが、一度失われた場所は二度と戻らない。
生き残りと回復
津波被災した東北3県は、国や県が提案する巨大防潮堤の建設に同意するかどうかの決断を迫られた。安全を選択すれば、住民は高い壁によって、慣れ親しんできた海の風景から隔てられる。建設まで時間を要し、結果的に住民の流出が進んでしまったところもあった。反対に防潮堤建設に多額の投資をせずに、住民主体の街づくりを選択したところもあった。
このことと新型コロナを同等に語ることはできないにしても、「生活とはなにか」「守られるべきはなにか」という点は似通っているようにおもう。どちらも、単に安全に生き延びれば、それで幸せが確約されるわけではないという難しさがある。
今、わたしたちは新型コロナから命を守ることを優先して、多くを犠牲にしている。その中には、本来なら治療され回復していたはずの別の疾患の人達も含まれる。堅実に商いを営んできたにもかかわらず、国の支援もなく命を断ってしまった人もいる。新型コロナの感染者数や死亡者数に加えられない幾多の犠牲。災禍からの回復のときに、彼らの存在を忘れないでいて欲しいと願う。
猫ということばを超えた存在―『猫には負ける』『未明の闘争』
5月14日
『猫には負ける』は詩人の佐々木幹郎氏が半野良の三毛猫ミーと付かず離れず暮らす日々のあれこれを綴ったエッセイだ。ミーは野良猫の頃と同様に外での遊びを楽しみ、気が向くと佐々木さんの家にやってきて餌をもらったり部屋で眠ったりする。猫の野生をある程度損なわず、関係構築していることに驚く。完全室内飼いの猫ではこうはいかない。
佐々木さんは、夏に山小屋で過ごすときにミーちゃんを連れて行かない。心配ではあるが、猫の生存能力を信じて東京の庭で留守番させる。これは、野生を失った家猫では無理だ。
てんでんばらばらに幸福である状態
形の定まらない関係性をお互いが無理せず維持する。もしかしたら人間同士もこういう繋がりを持てたら、きっと楽だろう。自分より小さいものに対して、やってしまいがちなのが、過剰に保護しようとしたり、その反対に自分の従属物のように思ってしまうことだ。子どもに対してそのように接してしまう親は多い。
だが猫は、人間にそれを許さない。近くにいながらも束縛しない。相手のことをしっかり観察し見守るが、求められなければ手は出さない。こういう距離感を知るのに猫はちょうどいいのではないか。
「サンデー毎日」2020年4月26日号(4月14日発売)に、佐々木幹郎『猫には負ける』(亜紀書房)の著者インタビューが。猫の話をしていると、わたしはつい笑いすぎてしまうのです。 pic.twitter.com/pnSAS7qYIe
— 佐々木幹郎 (@alicejamjp) 2020年4月15日
猫嫌い?な荻原朔太郎と猫好きな室生犀星
猫好きの佐々木さんから見ると、荻原朔太郎は猫の描き方がおどろおどろしく、あまり猫が好きではないと感じるそうだ。対して室生犀星は犬も猫も好きだという。
確かに、小説での猫の描かれ方で作者の猫にどのように接しているかわかるときがある。ある作品で妻に浮気を追求されそうになった主人公が、「警戒心で耳をたたんだ猫みたいな表情になっている」と語る場面があった。
「たたむ」というと、犬が萎縮したときに耳を垂れる様子が浮かんでしまうのではないかなあとおもう。ネコメンタリーにも出演し、猫のことを考えるのは小説を書くことと同じだと言う保坂和志は、『未明の闘争』でこう書いている。
「見せるだけ見せてガーガー寝ちゃったのよ。」紗織は喉の奥のところをふるわせて「ガーガー。」と私のいびきを再現すると、チャーちゃんが不穏なことでも起きたように耳をうしろに引っぱった。
「耳をうしろに」引っぱるというのはゴツゴツした表現で、「たたんだ」の方が文章としてはすっきりしている。けれど、実際に猫の行動を見ている人にとって、この「耳をうしろに引っぱった」というのは、どんぴしゃりの表現なのだ。これを読んで以来、うちの猫が似たような動作をするたび、このフレーズが浮かぶようになった。そして、保坂氏の観察眼に唸るのである。
扁桃体を刺激するドラマ「浦安鉄筋家族」
5月13日
夏日。アイスが食べたくて買いに出た。今年、初しろくま。去年はサクレのビール割りにはまったのを思い出した。調べて見ると、残留農薬ゼロのレモンだけを凍らせたものもあるらしい。これなら甘みを自由に調整できるし、今年はこれを試してみよう。
ドラマ「浦安鉄筋家族」を楽しく観ている。コミックのことは全く知らなかったのだが、がきデカみたいなノリだなあと思ったら、やはり秋田書店刊だった。最近ではこういう単純な下ネタギャグ漫画は珍しくなった。能書きは忘れて、訳もなく笑って楽しめる。暴力は連発されるのにいじめではない。むしろ、いじめられる対象に優しい。
大沢木家も、5発目で登場した西川家も絶対近所付き合いしたくないタイプだし、至るところに自粛警察がいる現代ではすぐにリンチにあいそうだ。(まあリンチにあってもやり返せるだろうが)。
そういう不遇な家庭に生まれた桜とのり子が公園で互いの親のひどさを告白しあう場面は、「普通ではない」ことが常態化していながらも、親を見捨てられない子供同士の悲哀がよく描かれている。1発目で大鉄のことを悪くいう花丸木を桜が殴り倒すのもそうだ。たとえ世間の基準とは離れていても、大鉄に愛されていることを桜は知っているのである。
このドラマの好きなところは、こうした背後に流れる人情はチラ見せ程度に留めていることだ。家族愛らしきものを描くのを目的とせず、あくまでギャクやドタバタを主役にしている。実写では出しにくいプロレス技のスピード感を細かいカット割りで表現したり、デフォルメされた空間移動に模型を使ったり(これがまた可愛くてよくできている)。この作り込みの力量にギャグをないがしろにしないぞ、という決意を感じるのだが、どうだろうか。
身を以て知る小説『モモ』の時間概念
5月12日
新型コロナ以降、無理に仕事を入れるのをやめ、少しでも嫌だなと思ったら仕事をしないことにした。そうしてゆとりのある暮らしをすると1日の時間が長くなった。
今『モモ』を読んでいるのだが、時間の効率化をすることで余計に余裕が失われることもあるのだなと身に沁みてわかった。自己啓発書などによくある時間管理術では、時間は有限なのだから無駄な時間をなくしてその分を優先すべき領域に充てよ、時間泥棒は切り捨てよと説かれている。
『モモ』を読むとその類の書が有害であることがわかる。『モモ』で提示される時間の概念は、現代の時間管理術の対局にある。むしろ、効率化を美徳とし、早く安くを唱えることはモモの敵である灰色の男たちが勧めている世界だ。彼らが無駄と切り捨てるものがどれほど人生を充実させているか、街の人達は失ってみて初めて知るのである。
灰色の男たちが言うとおりに、お喋りや遊びをやめ、金にならない客は切り捨てて効率化し、たくさん仕事をこなしたのにちっともゆとりを感じない。余るはずの時間はいったいどこにいったのだろう。貯まったお金も次々と提供される消費財に消えていく。やがてそれも手に入れたところで満足感が得られなくなる。なんのためにあんなに頑張ったのか。人々は当惑する。
わたしのような在宅で仕事をしている者は、依頼を次々と受け、それを高速でこなしていると毎月があっという間にすぎていく。一人PCに向かって黙々と仕事するだけなので、時間も曜日も関係ない。このスタイル自体、好きで選択していることだが、やはり1つずつ案件を仕上げているうちに1年が終わるというのが常態化するとさすがに虚しい。
『モモ』の世界観は理想論であり、おとぎ話だと大人は思いがちだ。けれど、積極的にさぼってみて、1日の長さを痛感すると、やっぱり本当だったんだなあと今更ながらエンデの偉大さを実感する。
こんにゃく米をはじめて食べた日
5月11日
夕方、買い物に出て久しぶりに坂を登ったらとてつもなく心拍数が上がった。
昨日のテレビで孫が経営する島のイタリアンレストランの食材を取るために断崖絶壁を命綱1本で降りていき、また登ってくる80歳くらいのおばあさんを見た。テレビを見ていると、こういうとてつもない体力を持つお年寄りが出てくる。それは例えば、ジム通いやお稽古事で後天的に獲得された筋力や運動能力ではなく、幼少期から日々の労働で培われた原始的な体力だ。戦中・戦後を生き抜いたホンモノの日本人のたくましさ。それと引き換え自分のひ弱さを思い知らせる。
夕飯にカツ丼を買ったのだが、いざ食べようとして、フタに貼ってあるシールをよくよく見ると「国産こんにゃく米」と書いてある。騙された。
そのようなものが売られていることは知っていたが、まさかダイエット用と謳ってもいないお弁当に堂々と米じゃない米が使用されていると誰が思うだろうか。普段からこんにゃく米を食べ慣れているか、カロリーオフのためこんにゃく米にチャレンジしてみようと思った人でなければ、騙された気分になっても致し方なかろう。
しかし買ってしまったものは仕方がないのでしぶしぶ食す。なんとも歯ごたえのないお粥のような噛みごたえ。おでんやきんぴらにしたときのプリとしたおまえはどこに行ってしまったのだ、こんにゃくよ。
たとえ糖質オフにならなくても、稲の米をご飯として食べたい。そしてこんにゃくはこんにゃくとして食べてやりたい。でないと、こんにゃくも浮かばれないではないか。
多少憤慨しながら食べ終えたが、この先、食糧難になったら否が応でも食べられなくなるわけだし、恵みがあるうちは感謝して食べる。それが一番だと思うのだ。
不条理さの加速
Covid-19の自粛生活が始まって3ヶ月目に入った。2月の休校要請の頃と比べ、影響を受ける人と受けない人の差が広がってきたようにおもう。これまでの災害などでも見られた現象で、なんとも気が重い。
テレワークに対応できたり雇用調整助成金を受けられる企業に勤める人と、対面でのやり取りがメインである業種とでは、経済的、精神的損失にものすごい差がある。
テイクアウトや通販に切り替え、なんとか延命しているお店もあり、ファンであれば支えたいと思うのが人情だ。わたしにとって、なくなってしまうと困るのは映画館と書店。特に書店は利益率の薄さや消費増税などで経営体力が弱っていたから、本屋さんの行く末をはらはらしながら見守っている。
現状になんとか抗って通販などに対応するお店が増え、わたしも遠方の本屋さんから初めて商品を買うこともできた。飲食店に流れていた高級食材が余り、お取り寄せする人もいるようだ。コロナが呼び水となりこういう恩恵が受けられるというのは皮肉なことだ。
しかしこれも物流あってのこと。小売店と消費者にとって歓迎すべきことでも、それが運送業者に過剰労働を強いているのではないかという不安がある。
テレビやネットで美味しいものを手軽に頼めると知って、いつもなら買わないはずのものを買ってしまう。それこそ不要不急であるにもかかわらず。
そのことが流通現場の疲弊を招くことにつながらないだろうか。もちろん注文してもらうことで助かる人がいるのも事実なので、なおさら事の複雑さに考え込んでしまう。
もうひとつ、わたしがもやっとしているのはテレビ番組だ。いろんな番組の収録現場が止まり始めたときには、このまま番組表がすかすかになってしまうのではと思った。だが、そうはならなかった。ワイドショーや報道番組は、別室に居るコメンテーターとスタジオを遠隔で結ぶというスタイルを始めた。今ではあたかもスタジオに座っているかのような背景を使うという演出までされ始めた。
こういう遠隔スタイルを使っている番組は正直いって、わたしにとってどうでもいい番組ばかりだ。(むしろ元々嫌いな新自由主義的論説陣がどういうわけだか重用され始め、なおさらげんなりするのだが、まあそれは置いておく)予算も安く済みそうなので、今後、増産されそうな懸念もある。
反対に接触なしでは成り立たない映画やドラマは再開の目途が立たない。(リモートドラマというのもあったようだが、あれは特殊なものだ)
なんとも悲しい事態だ。ミシェル・ウェルベックが、Covid-19で世界が変わるのではなく、これまでの流れが加速しただけ、と語っていて、つくづくそのとおりだなとおもう。自分にとって必要なもの、好きなものが次々と壊され、どうでもいいものが生き残る。ここ数年は、その不条理さを身に沁みて感じてきたが、今はその残酷さを見せつけられているような気がしてならない。
猫の記憶
佐々木幹郎『猫には負ける』をたしなむように読んでいる。野良猫のミーちゃんを完全な家猫にせずある程度放し飼いしながら共に暮らす日々。作者の留守中には近所の空き地やアパートの庭で過ごす。ちゃんと戻ってくるのか不安に感じるのだが、帰宅して名を呼び、窓を開けておくと自然と部屋に入ってくるそうだ。
野良猫は臆病な猫ほどが長生きする、ということを知ったのは、30年ほど前、わたしが隅田川左岸の永代橋の近く、深川に住んでいるときだった。(中略)わたしの深川時代で一番印象に残っているのは、生まれてようやく歩きだしたばかりの子猫が、次々と死ぬ事態に何度も出会ったことだった。(前掲書p.35-36)
夜になり車の往来が途絶えた倉庫街を元気な子猫は夢中で駆け回る。そのときに轢かれてしまうという。
この行を読み、飼い猫のことを思い出した。2ヶ月位まで野良で育ち、怪我をして飢えていたところを夫が保護した。好奇心旺盛で高いところや狭いところも恐れずに突き進む。カーテンに爪をひっかけてぐいぐい登り、そのまま降りられなくなったり。かと思うと高いタンスの上から勢いよく飛び降りたり。コロコロクリーナーにじゃれついて持ち手の隙間に細い足が挟まり、焦って暴れまわり余計に取れなくなったり。ハラハラすることばかりだった。
ある日、締め忘れた窓からベランダに出て、柵を乗り越え、転落死してしまった。もう一匹の先住猫の方は、ほとんど外で暮らしたことがないせいか、ベランダに出ることはあっても、あちこちニオイを嗅ぎながらこわごわと歩き回るだけだった。転落死した方は、普段あまりベランダに興味を抱く様子もなかったのに、いざ外の空気を嗅ぐや、躊躇せず1m以上あるコンクリートの柵の上に乗ってしまったのだ。こうして、臆病な子が残った。
臆病で優柔不断な子猫は、車の通りが少なくなったときでも、道路の真ん中に出てこない。路地の隅にいる。だから、生き延びることができるのだ。
郊外に住んでいる猫は、精悍で勇敢な猫ほど長く生き、都会ではその反対で、臆病な猫ほど長生きする、というのは、都会がイキモノにとっていかに危険かを示している。(前掲書p.37)